2022年12月19日月曜日

立川稲荷神社 掲示板めぐり

 立川稲荷神社。鳥取市立川町4丁目。

撮影 2022,12,12日。


この神社は掲示板、案内高札が特に多い。

そこで、その掲示板に特化注目して境内と周辺を散策してみる。



先日の稲荷神社参拝帰り、93才の元当神社総代という方に出会った。その方のおっしゃるには、当神社の維持隆盛に命を懸けているという。当神社は稲荷神社ではなく、北野神社であるべきなんだと熱望しており、立川の地名由来の話とか、神社の歴史諸々を延々と話してくださる。境内中の掲示板、案内文等は自分が掲示しているともという。そう言えば当神社には、他神社と比類ない量の高札等があったな、、、。
ということで、2010年のブログにも、無意識に掲示板を撮った記録があるのだが、今回改めて再掲、新掲示された案内標識等を丹念に撮り歩きしてみた。

案内文が重複していれば削除または改訳している



要訳=安政五(1858)年瀧山耕月寺にて、旅人逸処(本文を見る→法美郡)が詠んだ歌と絵。
[滝山耕月寺 禅宗 閑静の地なり 風景無双耕月橋 小流にかけたり 尼寺也]
[すき通る田毎の影を見し人や 月の耕すといいけむ]



大乗地蔵堂
要訳=景福寺の庵は稲荷神社の参道入り口に道向うに位置していると県立図書館所蔵絵図に記載。但しその絵図に庵が景福寺のものだとの記録は無い。

景福寺住職に尋ねた。
A 立川の地に景福寺持ちの土地並びに庵の記録は? Q 当寺並びに末,孫寺等に無し。
A 明和七年の過去帳に尼僧の戒名有るか? Q 無し。
A 六月上四日「随流波心居士」戒名が有るか? Q 無し。
以上、何一つお寺との関係を示すものは無かった。
但し、当時の景福寺はお寺さんの総まとめ役を勤めていて、僧侶も五十名からいる大きなお寺、年老いた尼僧などが余生を送る場所として、この土地を与えられて小さな庵を建て生活したとも推測される。
稲荷神社の土地は当時竹島神社所有で間口百間もあり、池田藩主葬儀の時この土地がお城と墓地との中継基地として使用されていたので、家老荒尾家の菩提寺景福寺関係の人を置いていたのかも知れない。
鳥府志(下の智)による地蔵堂の説明。天神鳥居の前にあり。此庵室へは広徳寺の隠居居住申し入れるが、当時の瀧山耕月寺の持なりと聞ゆ。






由緒
祭神 保食神,菅原大神。
要訳=古くから立川の産土神として祭られてきた。藩政時代は歴代藩主の崇敬した神社だった。三代藩主吉泰公の産土神が築地稲荷の関係から、社殿も造り替えて神威を高めた。
学問の守護神菅原道真を祭る竹島天神は、備前(岡山)竹島山に鎮座し池田家が崇敬していたが、寛永九(1632)年の光仲国替えの際立川の地に奉還された。寛保元(1741)年四代宗泰は因幡伯耆両国の勧化を許し竹島天神天満宮を建営した。
明治五年村社に列せられ大正七年現境内を拡張し北野神社を合祀、稲荷神社と称して祭ることとなった。大正十(1921)年社殿を改築して現在に至る。平成二十六(2014)年立川稲荷の幣拝殿,中門,本殿の三件が国の有形文化財として登録された。
例祭 五月二十三日。七月二十五日。境内二千四百十四坪。




尾崎放哉歌碑(1)。


要訳=[稲荷明神 石塔高く 秀でる社頭なり]
[如月や いなり祭りも今こんと 鳴いて喜ぶ子狐の声]
無駄案留記 逸処。
常夜灯は薬研彫で高さ一丈(約3m)。


大鳥居
要訳=昭和18年大地震で倒壊。昭和48(1973)年再建。



中段参道敷石寄進者案内。

手水舎
要訳=大正10(1921)年手水舎寄進者案内。建築費は1,160円。
ちなみに近くに当時の職人等の賃金表(大正9年頃)も張り出されていた。
大工=2円50銭。左官=2円30銭。サラリーマン=月給40~50円。





岡山石の灯篭一対
要訳=寛保四(1744)年天満宮に奉献。岡山まんなりの石灯篭(左右二基)とされる。
この地が竹島天神であった数少ない証拠品の一つという。


逸処の歌と絵(3) 安政五(1858)年。
要訳=[竹島山松雲寺 祭神天満宮 社頭。 梅 泉水金魚面白し 縁起八拾遺に審らかなり]
[人ならば罪にあつらむ神垣の 梅の香盗む夜の風]


社務所。菅公頌徳会鳥取支部。


修験山伏の墓石群案内。
要訳=この先の坂道を登ると、竹島天満宮を守護した修験山伏五十基の墓碑が見られる。
この神社は元備前児島群竹島山に鎮座、池田輝政の崇敬を受けていた。光仲国替時修験林栄法印がお供で来藩、藩主より九十石の社領(間口百間,奥行小丸峠まで一町の社地)を得て現地に鎮座した。依って当寺を竹島山松雲寺と号す[永代記録,由緒]。ーここで突然松雲寺が出てくるのだが推測するに林栄法印は竹嶋天神と松雲寺という二つの寺社を建立したーということだろうか。ー
代々の修験山伏は藩主のしばしばの参詣の節には松雲寺より出仕したと記録されている。藩は山伏松雲寺が寺社奉行との仲介にあたる者として、近在居住の修験者を統括させた。
山伏は自社の祭祀,加持祈祷,占い,霊山登拝の先達を行ったが、この山伏松雲寺は社の修造為勧化興行願う事が多く、元文二年修造の為八日間の相撲興行,子供相撲も度々行う。延享三年には武家の式楽だった能楽もこの竹島で能芝居として、庶民の為に始めて興行されている。これらの芸能を勧めることによって宗教活動も浸透していったようだ。
この北側の斜面工事で出土した墓碑は年代別に配列しているが、不動院初代林栄法印の墓石は不明。未整備の土地もありその全貌解明は後世に委ねたい。
墓碑開眼法要ー2015年4月24日。祈禱者ー観音院中村住職。
以上修験山伏墓碑案内。



いや、この先の坂道って、、どの方向?ってなるよね。

尾崎放哉歌碑(2)。



唐獅子一対
要訳=明治四十四(1911)年立川町中川氏より、稲荷神社の御神徳賜った記念にと石造唐獅子一対当社へ献納された。この唐獅子は神社合併後旧稲荷神社より移転された。



渡会橋(参道橋)。

2010年10月に来た時は、鯉が数匹悠然と泳いでいたっけ。

今は土砂でいっぱい。



辰巳氏奉納 石灯篭二基
要訳=辰巳竹蔵氏は明治十八年立川町にて魚屋を始める。大正十年東品治村(今の太平公園から東の弥生町,栄町付近)で料理宿を営んでいた。この二基の灯篭は、商業の神稲荷の大神への感謝の気持ちで奉納されたという。
後ろにある一基は大正十(1921)年、八頭郡船岡村の福永保固氏の奉納。



凱旋門。大正八(1919)年建立。
要訳=立川町井上氏が明治三十七年日露戦争に出征、無事に凱旋できた事を喜び寄進した。
モダンなアーチ対象のロマンを感じる門は、昭和五十一(1975)年には井上氏子息兄弟により、平成十九(2007)年には子孫によって修理塗装がなされ、見事な朱色に再生された。



拝殿前,参籠所前の敷石案内。
要訳=立川四丁目楠城屋二代目濱崎氏により拝殿前敷石寄進。大正五年総代として功績のあった人物。
参篭所,神楽殿(大地震で倒壊)前の敷石を寄贈したのは、東京の樺氏。立川の織物屋に生まれ、立川小卒業後は同校で教鞭をとった。明治から大正にかけて日本数学教育界をリードした偉才である。質素倹約に努め、厚い信仰を持った人物だった。


参籠所新築。寄贈者=第十代鳥取市長楠城嘉一氏。
要訳=二つの神社の合併について。稲荷神社と北野神社(竹島天満宮)は、大正六年六月合併工事が許可されたが物価高騰等諸々あり、完成したのは大正十(1921)年七月だった。




文政十一(1828)年の記事。竹島山不動院境内での出土品
要訳=法印兼而水石に志厚く、北の山手方十間程上に形良い大石が有るのを見つけ、近所の若者集めて掘り出してみると、絵図のような種々の器が出土した。
ー因府歴年大雑集 岡崎正義よりー


上段=見落としがちな菊御紋の飾り瓦
下段=旧社額だった天満宮額



国土の歴史的景観に寄与しているとして、拝幣殿,中門,本殿の三件が有形文化財として国の有形文化財原簿に登録(平成二十六(2014)年十二月十九日)された。

同時に二神社参拝出来るという由来案内。
要訳=昔の稲荷社は立川の産土神として古くから信仰されてきた。池田藩主三代目吉泰の産土神が江戸築地稲荷だったので、立川稲荷社を深く信仰され社殿を建立、代々藩主が参詣したため神威おおいに高まった。
池田家の祈願所竹島天神は、因伯第一の天満宮として例年の大祭には鳥取市内全体で献灯、維新まで池田家代々慶徳までお供揃えで度々参詣され隆盛した。
明治元年太政官布達によって北野神社と改称。廃藩後池田家との縁もなくなり修験廃止で祭司もいなくなった。明治二十一年着任した佐々木社掌の熱意と信徒の寄付で神社修繕や節目の祭典を執行し明治三十五(1902)年には官公庁,軍隊,信徒市民と広く募金を行い、一カ月にわたる一千年祭を実施した。
新しい神社の誕生。大正に入り,稲荷神社は社叢が狭く急な参道石段も不便となってきた。一方、広い社領の北野神社(竹島天神)は信徒が少ない事からとして合併話が出てきた。北野神社敷地を整備して新神殿を建て南に在った稲荷神社を現在地に移し、保食神と菅原道真を合祀して今に至る。
本殿右に保食神、左に菅原道真が鎮座、これが一度に二つの祈願が出来るという由縁である。本殿棟を見上げると二つの神紋(三ツ巴,梅鉢)が見える。
拝殿は竹島天神を解体し仏閣様式の部分を取り除き、再度組み立てて新しい拝殿とした。古い伝統を尊重しつつ、新しい工夫で立川の市民自らの努力により作り上げられた。


拝殿の歴史についての解説。
要訳=この拝殿は神仏集合の様式(お寺と同じ中に四本の柱があり、本殿の祭壇には菅原道真公の木像が祭られている。江戸期には百年毎に御開帳されていた。明治三十五年の道真千年祭は鳥取市内外寄付で、初祭,中祭,大終祭と一カ月祭典を行い神賑の為諸興行を催したと記録されている)であった為、釘一本使われていない建物も、神仏分離令により県,市の指導で大正年に解体され今までの位置より約二間奥に移動、仏閣を示す造作はすべて取り払われた。


尾崎放哉歌碑(3)。


類例があまり見られない本殿の姿
要訳=本殿正面は一間、背面は二間切妻造りで平入り。大屋根よりやや狭い向拝一間付で、一間社造りの変型ともいえる。
大正から昭和初期、彫り物をしない形式が因幡全域に流行した。屋根形の付近類例として、「制限図」の影響を受けた旧国幣中社、宇倍神社(明治三十一年)、稲葉神社(昭和二年)を見る事ができる。


あらためて本殿を見てみよう
要訳=正面の柱間の数は一つであり本殿は一間社にそっくりだが、正面の扉を開け外陣より内陣を見ると左のイラストのような二間社という偶数間数の本殿となっている。主祭神が二柱の場合でも二間社を避ける為中間に空部屋を設けて無理矢理二間社例が多い。内部を二間社としたのは、大正五年の稲荷神社,北野神社合併趣意書に、合議の結果とされる。氏子の総意は[トットリ立川稲荷,北野合社本殿]だった。外陣より内陣および床下についてイラストで紹介してみよう。
イラスト参照→本殿内は四畳の畳敷き。その奥に紋付前開きの二室あり。右に三ツ巴の保食神、左に梅鉢紋の道真公を祭祀している。床下の神秘-床下は円柱の位置に束を建て、また内陣二室の真下に[それぞれ一本ずつ心御柱を台枠]安置している。正面は一間とし外部は稲荷神社の神紋のみとしつつも、内部では二神同列に祭祀する様子が平面形式のみならず、心御柱にも見られる社です。
さらに簡素な中に静謐な趣がうかがえる。近代和風建築の最盛期に、大正元年「制限図」廃止以降もその流れをくむ神社本殿として造形の規範となっている。



タゴガエル
要訳=名前の由来は、両性類学者 田子勝弥氏の功績をたたえてつけられた。四月になると社殿両側の渓流で、グウッグゲエッと低温の鳴き声が聞こえる。春の祭礼が近づくと、朝夕は大合唱となる。祭礼の終わる五月下旬には鳴き声もまばらになる。声は聞こえるが姿が見えないのは、伏流水といって水中地表下で産卵する生態からという。清流にしか生息しないといわれ、この渓流は鳥取市三大銘水の一つとして、昔から立川の人に使われて来た。

延命水
昔は清流と言われたかもしれないが、延命といわれてもさすがに今の状態では飲めない。




狛犬と本殿解説県内最古級の狛犬
要訳=元来狛犬は、メソポタミアで王の権威を示す動物のライオンがルーツとされ、中国に伝わり獅子→朝鮮半島の影響を受け→高麗→こま犬として伝わったとされる。
平安時代には木製の狛犬は宮中で御簾の押えとして使われ、以後神社の中や軒先などに置かれご神体のお守りとされた。石造り狛犬は鎌倉以降に作られたが、その頃の神殿狛犬の記録は、奈良,宮津,福岡に作例がある程度。福井の越前では安土桃山時代頃から江戸末期までの石造狛犬が多く残っている。北海道や島根県に至る日本海沿岸、近畿から東海各地でも見られる。
当社の狛犬は凝灰石質の脆い石造りだが、それがよく残っていたなと驚かれる。この岩石は県下の砕石場のものか、越前狛犬の笏谷石なのか未確認である。



灯篭一基。拝殿右。
要訳=元文元(1736)年立川四丁目の武士十二名が旧稲荷神社に寄進したもの。大正十(1921)年、南に在った稲荷神社がこの竹島天神の地に移った時に、ほかの灯篭群ともに移設された。高さ五尺五寸(165cm)。




尾崎放哉歌碑(4)。








以降 2010,10月撮影。

稲荷神社社頭を東へ。旧稲荷神社参道口

階段上り切ったその先は、通行不能?状態。





旧稲荷神社参道口をさらに東へ。廻国塔と力士塚

廻国塔。

要訳=大乗妙典を全国六十六ヶ国の霊地に奉納する巡行は南北朝時代(鎌倉,室町時代のはざま)から記録がある。源頼朝の伊豆時代六部となって諸国を巡り、その利益によりのちに平家を打倒して将軍になったのが由来とされる。十八世紀(赤穂浪士討ち入りの時代)になると廻国行者も増え「六親眷属菩提の為」という宗教心により僧名,俗名の者が六部となって旅したことが廻国供養塔から読み取れる。幕末になると廻国塔は減少するが、伊勢,金比羅講などが盛んになっていく。
この供養塔は大乗念坊夫妻が廻国修行記念として寛政四(1792)年建立。この他立川墓地に自慶夫妻が文化十一(1815)年大乗法典六十六部廻国記念の供養塔あある。



文政年間の地図絵
要訳=江戸時代には立川新町と言った立川という地名の由来。天神山の麓を流れる天神川に沿って広がる川岸崖上の高地集落を立川という。


力士塚。嘉永三年 勇駒源助
要訳=力士塚は鳥取地方独特な建造物とされる。但馬,兵庫浜坂,伯耆にも有るが中心は因幡だ。旧市内には百程の力士塚が在る。文政年間から造られ始め最盛期は明治時代である。この塚は古いほうから八番目という。力士塚には村境を護る道祖神のような災厄や百鬼を鎮めるといわれている。
因幡国境の温泉町千原には両国梶之助塚が在って手足の病を治す御利益があると訪れるひとが多いそうだ。また関取→咳を取るとされる塚もある。